悩んでいても忘れる

何かが上手くいかなくて、行き詰まって悩んでいても、しばらくすると別の事を考えていたり、悩んでいた事も忘れたりする。

 

ずっと悩みっぱなしってことは無いのだと思う。

暗い気持ちになっていたにもかかわらず、いつの間にか全然違う事考えていることだって案外多いかもしれない。

 

悩んでいる時は結構真剣だったはずなのに、その時の気持ちはどこへ行ったのか、悩んでいる事だって忘れてしまう。

 

考えている事がいつの間にか変わっていると自覚できればいいけど、その事にも気が付かないでいるのはもったいない。

 

考えたり悩んだりしている事がわりと簡単に消えていってしまうと分かっていれば多少辛くても、何とかやり過ごす事が出来ると思う。

 

例えば、

「あ、なんだか暗い気持ちで悩んでいるなあ。でもそのうちこんな悩みだっていつの間にか忘れて別の事を考え出すよな。」

 

って思えるだけで多少は気がまぎれる。

 

考えていること、感じている事だって、案外ちょっとしたきっかけで頭の中からなくなってしまう。

 

自分を観察して考えている事、感じている事の変化を見つけてみよう。

 

 

悩むのは自分を隠しているから

自分を隠しているから辛くなる。

 

「〜だ。」

「〜したい。」

「〜したくない。」

 

と、思っているのにそうではない行動を取るから辛くなる。

 

自分自身に対してまで、本音を隠していると苦しむし、悩む。自分の本音とは違う行動を取っていると自覚しているのならまだ良いけど、そんな自覚さえも無いまま本来の自分とは違った行動をしている事だってある。

 

自分ではなく、世間の価値観に則って行動するが故に本音との差が生まれてくる。その「差」が大きくなるほど、悩みも大きくなると思う。

 

今取っている行動や生活は自分の価値観に沿っているのか、それとも世間一般の価値観をそのまま取り入れているのか、自分の行動に目を向けてみよう。

 

 

 

 

呪いになる言葉

これまで当たり前とされていた事だって、本当に当たり前の事なのか。

案外、その「これまでの当たり前」に苦しめられている人だっている。

 

「〜ねばならない」

「〜であるべき」

「〜は〜すべき」

これは呪いになる言葉。

 

 

こんな考え方があるととても苦しい。

例えば、「男は(女は)〜であるべき」なんて考え方をして、〜でない自分を押し殺して無理矢理にでも、〜になろうとする。

 

自分でそう考えていなくても、周囲がそう考えて、または要求していることで自分が苦しめられる。本来と違う自分になる事を求められる。

 

人を一つに決めるというのは、かなり無理がある。自分じゃないもので居続けさせようというのはとても苦しい。

 

無意識的に、

「〜ねばならない」

「〜であるべき」

「〜は〜すべき」

なんて言葉に縛られて、行動しているかもしれない。

 

一人になって、ゆっくり自分がどんな人なのか考えてみよう。周囲の人々とはいろいろな面で違いが見えてくるかもしれない。

正直になってみたら

自分を偽っている人が多いみたい。

 

このブログの中で、これが結構読まれている。

abukunoshikou.hatenablog.com

 

 

自分を偽ってそこに苦しさを感じているみたい。

本来の自分を押し殺して、周囲に同調したり、本来の自分を隠したり。

 

「自分を偽らない」で検索してこのブログを見つける方々もいらっしゃる。

 

でも分かります。おれもそうです。どうしても周囲を気にして自分の思っていることを素直に言えずに我慢してしまう。

 

周囲にどう思われるかが気になるんですよね。何を言われるだろうか、と考えると不安なんですよね。分かります。

 

 

人前で、とは言わないから、正直な気持ちを出せる場所、時間を用意しよう。

そして使うのは紙とペン。

 

これだけでいいから用意して、素直な気持ちを書き出そう。

なんでも好きな事をたくさん自由に書きまくろう。人に見せられない様な事でも、普段思っていてもなかなか言えない事でも、書き出してしまおう。

 

自分が案外いろんな事を考えている事にも気が付く。自分の内面にあるものをじっと黙って抱えているよりもいくらかは気持ちが収まるはず。

 

自分に対して、正直に素直になれる時間を作ろう。

気になったらやってみよう。

何かが気になったら、やってみよう。

 

何度も考えている事、時々思い出す事があればそれをやろう。やってみよう。きっと自分にとって必要な事だから気になっているし、考えているのだ。

 

自分にとって必要なければ考えないし、気にもならない。気にならない事は自分の目にも耳にも入ってこないし、意識する事も無い。

 

気になることを何か感じ取っているのは多少は自分に取って関心があるなり、必要としている事のはず。

 

一度やってみて、それで気が済んでしまっても良い。自分が満足できればそれで十分。やらずにずっと気にしているよりもはるかに良い。興味関心を満足させる事で充実感が得られればそれも自己肯定の一環だと思う。

 

出来る範囲で気になる事はやろう。どうでも良い事は気にならないからやる必要も無いこと。

やらずに避けていて、ずっと気にしているならきっと大事な事かもしれない。

自分がどう感じているかを意識しよう

集団の中に居ると(特に学校) ついつい周りがどうしているかを見てから、自分の行動を決めてしまう人もいる。

 

自分がどうしたいか、どう感じたかを後回しにして周りがどうしているかを見渡す。そして自分の行動もそれに同調。

 

それを繰り返していると、だんだん考えたり感じたりする力が落ちてくる。そしていつの間にか自分が分からなくなってくる。何がしたいかも、自分が好きなものも。

 

考えないで周りについて行くだけでは、自分を見失う。

 

出来るだけ、自分に意識を向けて、今どう感じているか何を考えているか気にしてみよう。

何がしたいかも、好きなものもよく分からない。と、感じていてもネットやら本やらで何かしらの情報には触れている。

 

どんな記事をクリックしているか、どんな本を置いているか、などを考えてみると少し位は興味のある分野が見えるはず。

 

何となく動画を見ている時だって何でも良いから見ているのではなく、好きなもの、気になるものを選んで見ているはず。 

 

そんな所にも、自分の本心が見え隠れしている。

 

気になった動画を見てみる感覚で、興味のある物を見てみよう、手に取ってみよう。それくらい軽い気持ちで何かに触れてみると良いと思う。

 

クリック感覚で気になるものに触れる、やってみる、行ってみる。

これくらいの、本当に軽い気持ちでいろいろ試してみよう。

 

偏差値なんてこんなもん。

 これが現実みたい。

私はかつて、偏差値導入を主導した政治家から話を聞いたことがある。 ベトナム反戦・第2次反安保、学園民主化などで大学闘争が 活発化して東大安田講堂事件(1968~69年)が起きた後、 私が「日本はこのままいくと若い人たちが不満を募らせて、 クーデターを起こすのではないか」と懸念を示したところ、 その政治家は「大前さん、その心配はないですよ。国にも、 アメリカにも逆らわない従順な国民をつくるために『偏差値』 を導入したのですから」と答えたのである。 私は偏差値がそれほど重要な意味を持っているとは 思っていなかったので非常に驚いたが、 偏差値はそういう目的で導入された「システム」にほかならないのだ。 偏差値によって、たしかに事前に効率よく 学生を割り振って受験させることが可能になった。 だが、学校側の工夫次第で、偏差値に関係なく 才能ある学生を選ぶことは可能だ。 実際、世界のほとんどの国には偏差値などなく、 学生は自由に学校を選んで受験している。 結局、日本で導入された偏差値は自分の 「分際」「分限」「身のほど」 をわきまえさせるためのもの、 つまり 「あなたの能力は全体から見るとこの程度なんですよ」 という指標なのである。 そして政府の狙い通り、偏差値によって自分のレベルを 上から規定された若者たち(1950年代以降に生まれた人)の多くは、 おのずと自分の〝限界〟を意識して、それ以上のアンビションや 気概を持たなくなってしまったのではないか、と考えざるを得ないのである。

大前研一 『稼ぐ力』より

偏差値導入の意図とは? - 世界は逆説で出来ている。