書きながら不思議な感覚に陥った
ノートにいろいろ書きながら、頭がどことなくぼんやりする様な感覚を感じた。字を書いている手は動きが止まる事もなく、さらさらとペンを動かし続け、言葉がすんなりと出てきている。
いつもそんな状態ではないが、ふとした時にこんなぼんやりとした感覚が表れて、頭を包んでいる。
その間は何となく気持ち良く文章が書ける。言葉も滑らかに出てきて、手もスムーズに動いて、ただひたすらに書く事にのめり込んでいける。
意図してやろうと思っても出来ない。書いているうちにこうなってくるので自分でコントロールが利かず、またやろうと思っても、思ったようにいかない。
これはノートにペンで書いている時にだけなる現象。キーボードで打ってもこんな風にはならない。
どうにか自分の意志でコントロールできたら楽しいが、思い通りには出来ない。多少、力を抜いて書くと、わずかにこんな状態に近づくかなという事は実感できた。
手を使って書いている事に意味がありそうだ、やはり体を使うと精神にも作用するのだろうと思う。
前に何かの本で読んだけど、軽い運動をしていると鬱病も改善されるみたい。しかも、イヤイヤやっても鬱病は悪化せず、改善される傾向にあるらしい。
今の自分の体の感覚
今の自分の体について意識を向けていこう。ときどき言っていますが、食べる量については考えた方が良いということをお伝えしたいのです。
今果たして空腹なのか、と自分の感覚を意識してみる。そうするとそんな時ばかりではないはず。でも食べているなんて事はあると思います。
なんとなく精神的な満足感、充実感が得られるから食べたくなるはず。そういっても案外、空腹にはなっていない時も多いので、結果的に必要以上に食べてしまっているなんてことにもつながる。
最近太ってきてしまったのでそれを気にして、こうやって何度も食べる量についてブログにしている。さらに、過去に会社帰りに歩きながら、ふと、「夕食は何を食べようか思っていたが、全く空腹感がないな」と感じたのがきっかけで、空腹感や食事について意識するようになった。
体で感じていることを最優先すれば空腹感がない事が多いので夕食は全く要らないのかもしれない。
ストレスの緩和、満足感を得る事のみを目的としての食事が広く世間一般になっているかもしれない。
大人になれば、生ていく上でそんなに食べなくても大丈夫だと思う。
中年太りやコレステロール過多など健康診断で引っかかるようなことって食べ過ぎが原因で起きてはいないか。
やめようと思ってもやめない
よく、喫茶店でノートにいろいろ書いてます。いつも1時間ぐらいでまあだいたいこんな所かな、と思って書き終えて店を出ていた。
そんな事を繰り返していたんだけど、一時間以上店に居続けてみようと思い試しにいろいろ書いてみたら、結構書けるものだった。
結局一時間半で何も書けなくなり、出尽くしたなと思って、店を出る事にした。でも、一時間以上店にいても案外書けるものだと分かった。まさか何か書ける様な事が、いつもより多くの時間が経っても出てくるとは考えもしなかった。
もう書けないと思っても、結局は適当な所で止めているんだという事がよく分かる。これに限らず、まだ出来るのに適当な所でやめている事ってあるかもしれない。自分がその自覚がないだけで結構いろんな事をそうしているのだろう。
ノートに書く事も、最近はとても短い時間で止めているのではないかと気が付いた。なんかやっている時間が少なくなってなって来た様な感覚。慣れてきて雑になってきているのか。改めてきちんと時間を取ってもっともっと書こう。ブログだけでなく、ノートにも沢山書いて自分の内面を表に出そう。
やはり時間を取って、家ではなく場所も変えて、やった方が良い。書かざるを得ないように、自分が動くように出来る事はやっておこう。
広い場所が好き
河川敷の公園に行ってみました。
とても広くて、野球のグランドが何個も並んでいる様な大きな公園。そんな所に一人ぽつんと立って見たら、なんか結構気分が良くなった。広い所に立ってみて気持ちが軽くなったと感じる。
そこに、アウトドア用の椅子を持っていって一人優雅に座って風にあたりながらのんびりと過ごしたらとてもいい気分になった。
ただ広い公園で何もせず景色を見ながら過ごしただけなんだけど、普段こんな事しないから、とても新鮮だった。夕方ぐらいになるとかなり涼しくなり、日影にいるととても快適。風あってか何だか清々しい時間だった。
まわりに建物もなく人もいないので本当に遠くまで見渡せて、気持ちがよい。身の回りになにもないと言うのがさっぱりとしていてとても気分が良い。
どうやら身の回りにたくさん空間がある場所が好きみたい。じぶんの回りを広くあけておきたい。とにかく空間を余分に、沢山取っておける場所で生活がしたいと思っている。
家の回り、道の幅、部屋の中、そういった所はある程度スペースがあった方が動きやすいし、広々していると見ていて気分がいい。
逆にせまいところは見ているだけで窮屈になるし、身動きが取りづらいと感じて何だか息が詰まってしまう。
自分は前々から広い場所を求めていたのだ。それだけははっきりした。
やってみたい事があると
これをやってみようと動き出してみると、それの実行を妨げる存在に気が付く。そうすると。じゃあこうすればいいな、これをやるとまずいな。なんてこともすぐに思いつく。
何となくだけど普段と違う頭の使い方が出来る。「やりたい」があるとそこに向かって頑張れると言うか、一直線にそこを目指す。自分がやったことは、本当に小さな事だったけどやってみたい、が強い原動力になると分かった。
他にも、ここで出来るならあっちではどうだとか、実際に行ってみようかとか、考える事、意識の向く方向も広く多面的になってくると感じた。
こうして自分で書いていても、行ってみたい所があるなら実際に行ってみようかな。すぐ近くなんだしと思うようになった。どんな発見があるか分からないからね。よし、行ってみよう。
ほかにもいろいろ試して、自分の中の「やってみたい」をいろいろ見つけてみよう。そして実際にやってみよう。それには動く事から始めるしかない。動く、やりたいを見つける、やる。の繰り返しだと思う。そしていろいろな発見もあると面白いだろう。
ちょっとやってみる所からその先へ
「ちょっとこんな事してみようかな 」と思って買い物にいった。ホームセンターの、普段は行かない一画に行って探し物。
探していた物は見つかったけど、そればかりではなく多少の発見もあった。
「あ、こんなのあるんだ。」
「欲しかったのはこれだけど、こんなタイプの物もあるんだ。」
「こんな物を付属させて使えるんだ。」
「この季節って、品揃えがこんな風に変わるのか。」
なんて事がわかったり。
普段行かない所にいく。普段使わない物も手に取ってみる。なんて事をやっていると思わぬ発見があるかもしれない。今役に立たなくても、あとでふとした時に、
「あ、あの時のアレがちょうどいいかもしれないぞ。」とか。
以下、過去の記事参照
ちょっとした、こんな事してみようという思いから、物を探しそこで新しく発見が得られ、季節の変化も知れる。やはり動いた分だけ、何かしらの事が得られるのかな。動くきっかけは、自分の、〜したいが原動力にならないとそんなに動けないと思う。立派な動機で出なくても、こんな事したらおもしろかもしれないといった遊び感覚で良いからやってみよう。
発信を繰り返していると
人気があるないに関わらず、何らかのことを自分から発信し続けていると、受信ばかりでは辛くなってくる事に気が付く。
こんな風にブログを続けてきて、「ネットは見ているだけではつまらないなあ。なんか苦しいな」と感じるようになった。すごい事、面白い事を発信している人は沢山いて、確かに興味深い内容が多い。でもなんかちがう、なんか情報の取り過ぎで満腹感があると、うっすら感じる。
これ以上はいらない、受け取りたくないと体が反応したのか。ネットを見ていても情報が頭に入ってこなくなる。明らかにお腹一杯と言った感じだ。動くなり、入ってくる量を減らすなりして「ダイエット」する事が必要だと思う。
こうなってくると外に出すという手段が必要。ブログ、ノートに書くなどしてたまった物をどんどんと表に出すという事が大切だと思う。溜め込まないで、とにかく出す。出して自分の中をスッキリとさせて、そこで始めていろんな物を受け取れるようになってくるのだと思う。
明らかに入れる方に偏っている生活をしていると思う。満腹なのにそれに気が付かないでまだ食べているのだ。出すから入れる事が出来る。
情報でお腹いっぱいなのであれば、それは出し足りていない事の表れ。発信して出して見る事で徐々に出し入れのバランスについての感覚が思い出され、情報の取り過ぎに気が付く。