発信を繰り返していると

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人気があるないに関わらず、何らかのことを自分から発信し続けていると、受信ばかりでは辛くなってくる事に気が付く。

 

こんな風にブログを続けてきて、「ネットは見ているだけではつまらないなあ。なんか苦しいな」と感じるようになった。すごい事、面白い事を発信している人は沢山いて、確かに興味深い内容が多い。でもなんかちがう、なんか情報の取り過ぎで満腹感があると、うっすら感じる。

 

これ以上はいらない、受け取りたくないと体が反応したのか。ネットを見ていても情報が頭に入ってこなくなる。明らかにお腹一杯と言った感じだ。動くなり、入ってくる量を減らすなりして「ダイエット」する事が必要だと思う。

 

こうなってくると外に出すという手段が必要。ブログ、ノートに書くなどしてたまった物をどんどんと表に出すという事が大切だと思う。溜め込まないで、とにかく出す。出して自分の中をスッキリとさせて、そこで始めていろんな物を受け取れるようになってくるのだと思う。

 

明らかに入れる方に偏っている生活をしていると思う。満腹なのにそれに気が付かないでまだ食べているのだ。出すから入れる事が出来る。

 

情報でお腹いっぱいなのであれば、それは出し足りていない事の表れ。発信して出して見る事で徐々に出し入れのバランスについての感覚が思い出され、情報の取り過ぎに気が付く。

書く事があっても気が付かない

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自分が持っている性質や特徴って本当に気が付かない。それは人が言っているのを耳にたり、書いた物を目にして、「あ、そうそう。それって確かに自分にもある」なんて気が付いたりする。なので、自分の性質や特徴ついて声に出したり、文章に残すことで、その存在が明確になり自分の頭の中にしっかりと残す事が出来る。

 

だだ、存在に気が付いて、言葉にするまでが結構難しい。普段の生活の中で、自分には〜なところがあるなあ。ときちんと認識する所から始めなければならないから、普段から自分の事を良く見ていないと自分についての理解や気づきは得られない。

 

自分が普段当たり前にやっている事なんかは特徴だなんて思わないで普通の事だと思ってしまう。しかしその普通は他の人にとっては普通ではない。

 

自分にとっての当たり前は、立派な特徴になり得る。それはブログのネタになったり、自分を再認識するための材料にもなりうる。自分がやっている事の一つ一つを逐一言葉にすると良いかもしれない。(どんなに小さくても)そうする事で、客観的に自分を見る事に繋がり、何か発見があるかもしれない。

 

 

世間一般と合ってない

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タイトルの通り、どうも世の中の大部分の人たちとうまくやれていないと感じる。

 

皆さんどうですか、職場の飲み会とか楽しいですか。おれはあんまりです。

 

 大勢集まって酒飲んでもなんか楽しくないんだよね。飲むなら少人数で落ち着いて飲みたい。なんかガヤガヤしている所で飲んでいても楽しくなれない。飲み会での何でもない話題にどうもうまく対応できない。喋る事も、聞く事もなんだかちゃんと出来ていないと感じている。

 

世間の人たちの話している話題を聞いてもなんか面白くなれない。なんであんなに楽しそうなんだろうとか思って、なんか自分だけ遠い所にいるみたいに感じてしまう。

 

じぶんを押し殺してまで周囲に合わせる事が出来ないししたくない。愛想笑いが出来ないのだ。

 

世間の人が持っていて、生きていくために必要な能力が欠落しているのか。何かが抜け落ちているのか。

 

おれはこんな人です。

もう既に先人がいる

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こんな風にしたら楽しいかな。こんな風に出来ないかな。なんて考えて、ちょっと検索すると、もう既に同じ様な事をやっている人がいる。

 

同じ事どころか自分が考えた以上の事を、とっくにやり終えている人までいるのだ。さらにそういった事を実現するためのサービスまで存在していたり。本当に世の中いろんな事が見えない所で起きている。

 

自分が、やってみようかな、とか出来ないかなとか思った事なんてずいぶんと小さくかわいらしい事でしかないと思えたりすることも。

 

だとしたら、自分が思った事はそんなに難しい事ではなく、すぐに実現できそうな範疇のことでしかないとも考えられる。

 

 

何かのきっかけでつながる

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ちょっとやってみようかなとか、あれはやめてこれをしようとか、些細な個々の行動が後々になって結びついたり、繋がりを持ったりする事がある。

 

本当にそれは、思いもよらない所から出てきたもの同士であったり、ずっとほったらかして使わなかった物が、ある事を始めたために、とても役に立ったりなど全く予想がつかない。

 

そんなにうまく行く事ばかりではないではないけど、何となくふと手に取った物が後で意味を持つ事がある。強い結びつきばかりではなく僅かな接点であったり、ほんのちょっとかすめる程度だったりこともあるけど。

 

そんな風につながりを作るためにはいろいろな物に触れる事が大切だろうね。あちこち動き回って、いろんな物にどんどん触れて、触れ続ければ、関係ないもの同士が繋がる機会だって増える。

 

そして物と物をつなげる事が出来るのは自分だけではないかとも思っている。誰かが、「あなたが知ってる●●ってこれと繋がるよ。」なんて言ってもらえる機会はまずない。人に言ってもらうためには、やはりいろいろと動いて、人にあって話をしていく事でしかできない。自分で動くしかないのだ。

 

物と物をつなげるためには、自分がいかにして動き続けるかが決め手。

意識して自分を楽しい方へ持っていく

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もしかして感情って選択できるのかなって思った。

 

ノートにいろいろ書いていてなんか楽しくなったり、ペンを持つ手も程よく力が抜けてさらさらと動く、なんて事があった。

 

そのとき書いている内容は自分がやってみたい事、試してみたい事について。手の力が抜けているという事から、やはりリラックスできているのだと実感した。

 

コレについて書いていると楽しくなったりリラックスできる。それであれば、楽しい思いをしたいとか、リラックスしたいと思ったら、コレについてノートに書けば良いんだ。 という事に気が付いた。

 

つまり欲しい感情を求めて意図的に行動を選択するということ。

今までにこんな事をあまり考えてこなかったので、なかなか難しいが、どうすれば自分が楽しく、リラックスできるのかをきちんと把握しておこうと思う。

 

その方法がいくつもあれば状況に応じて使い分ける事が出来る。さすがにノートに書くというのは歩いていたり、車に乗っていたりすると出来ないので他の方法が必要だしね。

 

おそらく、他に方法が全くないという事はないだろう。自分が気が付かないだけで何処かのタイミングで、何かのきっかけで自分の感情が変わっているはず。悪い感情は見つけやすいが、良い感情というのはなかなか見つからない。

楽しさが楽しさを呼ぶ・・・かも知れない

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ちょっと何か試してみて、「あ、なんか良い。楽しい。」そう思ったら、じゃあこうしようとか、ああしようとか、すぐにその楽しさを膨らませる方向に思考が働く。その、こうしよう、ああしようを実行するまでの間がまた楽しかったりもする。次の休みが待ち遠しかったり、そのやりたい事について考えているだけでもう既にうれしくなってしまったり。たとえそれがうまくいかなかったとしても、他の方向へ動き出すためのヒントにもなるかもしれない。これがダメなら、こうしたらどうかな、なんてさらに考えたりする事が出来る。うまくいかなくても、少なくともこれはあんまり楽しくないんだな、という事実が分かっただけでも良い事だと思う。自分一人で考えて完全なオリジナルの事をやる必要ないとも思う。誰かがやっているアレをこんな場所で試したらどうだろうとか。この場面であの人のコレを利用したらどうなるだろうとか。同じ事をやるにしても環境や条件の組み合わせはいくらでも変えられる。そうやってあれこれ試すと、なんか良いな、楽しいなとかそんな感情を見つけつことが出来ると思う。見つかると楽しさを膨らませる思考が働くからもっと楽しさを見つけやすくなったり。