満員電車は当たり前ではない。
東京の朝の日常的な光景である満員電車。通勤とはこういうものと思って生活の一部としている人も多いと思うが明らかに異常だ。こんな物は人道に反している。
人としての尊厳さえも踏みにじっている思う。どう考えても変な事だ。こんな物を何の抵抗もなく受け入れてはいけない。どうしてこんな事が許されているのだ。
誰かが、何らかの意図をもって、大勢の人間を配下に置きまとめて操ろうとしているのではないか。大勢を束ねて一カ所で働かせ、適当な時間が来たら返すというやり方で。
羊だの牛だのを放牧して、また厩舎にでも戻すようだ。人様の人生を何だと思っているのか。家畜を出荷するための輸送手段の様で満員電車が気に食わない。
もっともっと人間はばらばらに生活して良いはず。東京へ通勤しているが、この窮屈な状況に我慢が出来ず、早起きして比較的空いている時間に電車に乗っている。こうしてもう何年か経つ。満員電車にはもう乗れない。めまいがしてしまった事もある。
人が隙間なく密集している所が苦手で。なるべくそういった所には近づかない。例えば駅の階段付近とか、混雑している店とか。そういった所にいるだけでなんか腹が立ってしまう。
そういった環境にいても何とかなっている人って本当に強いと思う。身も心も。こういう強さを持った人が都会人である証だと思う。
ここにも自分の思いの丈を書いています。よろしければご利用下さい。
https://note.mu/abukunoshikou/n/n52cce3d38f96
大学生は勉強しろよ
もちろん頑張って勉強している大学生はいる。沢山いる。
そうはいっても一般的な大学生って言うと、・・・・ね。結構、一生懸命バイトに精を出したり、仲のいい人たちと、日々楽しくやったりしている印象があるよね。あと、サークルとか。飲み会とか。
大学生のころ、入学したとたんに急に自由に楽しくやる周囲の人たちの変わり身の早さには正直ついていけなかった。
なんでそんな切り替えが出来るの? どうして何も戸惑わずに遊び始めることが出来るの?なんて感じていた。
大学での過ごし方をあらかじめ学習してきたかのように、みんなそろいもそろってバイトとかサークルとかに順応していける事が理解できなかった。
決まり事であるかのようにみんなやる事が一緒。
一人でぽつんと新しい環境に右往左往していたのを今でも覚えている。
そして昔から当たり前のように起きている奇妙な事実。それは、学生が勉強をあまりしないということ。
なんでこんな事が何十年とまかり通っているのか。明らかにおかしいと思う。なんでこんな事が許されているのだ。
日本は留学生を受け入れるべきではない。彼らがかわいそうだ。遊んでいる学生に囲まれてしまうなんて、きっと不満やいらだちもあると思う。
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大坂なおみ選手の出自をいつまで説明をするつもりだ。
大坂なおみ選手の出自についていろんな所で説明をしていると見受けられる。日本の選手として扱っておきながら、お父さんがとか、お母さんがとか、いちいち言及されているのだ。そんなのもう止めたらどうかと思う。めんどくさいから。
やはり一般の日本人とは異なる、特別扱いをしている。
多様性と言う点においては、日本はきっと世界一遅れた国かもしれない。多くの国ではきっと当たり前のように他民族社会であったり、多言語社会であったりするので、様々な特徴の人がいると言うことを子供の頃から肌感覚で感じているのだろう。
でも日本ではそういった事はほどんどない。同じ民族、同じ言語で島国だから国境もない。(琉球民族、アイヌ民族などは、極端に少数派だ)そうなると、自分達と違った民族と接する機会って長い歴史の中であまりなかったのだ。
だから外国から来た人、異なる民族となると非常に珍しい存在だ。
一方で、両親のどちらかが外国出身という境遇の人も珍しくなくなってきているのも事実。きっとこのような人たちは、何度も何度も、会う人会う人に、お父さんが●●人でお母さんが○○人、生まれは・・・・だよ。という説明を繰り返しているのだろう。きっとものすごくうんざりしているはず。
こういった境遇の人が増えてくれば、こんな質問自体が無くなると思う。なぜなら、質問をする人も、される人も面倒になってくるはずだから。
初対面の人と会うたびにこんな事を聞いていてはただの手間でしかない。
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サービスと一緒に受け取るもの
毎日の生活の中で、いろいろなサービスや物を買っている。形のある物からない物まで様々な物を、お金を払って提供してもらっている。誰しも、価値や満足感を求めて、自分の気に入ったものを手に入れようとしている。
提供する側も、競合がいるのでより良い物、サービスを提供しようと努力を重ねる。それによって受け取る側もより一層の価値、満足感が得られる。
その中で、サービスの一環としてだと思うが、特に必要としていない物まで受け取る事になったりする。
ある人には価値がある物なのかもしれないが、価値を感じていないものと判断する人もいるだろう。
はたまた、一部の人たちからのクレーム対策の一環かもしれないが、それによって多くの人が仕方なく受け取る事になっているものがある。
物やサービス以外に受け取る事になる、とは何を言っているのか、以下より。
介護されつつある生活
知らず知らずのうちに、あなたの日常生活にも介護の手が忍び寄ってきているかもしれませんよ。
決してこれは、そのうち誰かを介護する生活が始まるますよと言っているわけではないよ。さらに、将来、年をとった時に介護される事になりますよと言っているわけでもちろんない。
今、現在のあなたの生活の中にも、徐々に介護が浸透して来ているだろうと感じているのでこうしてブログに書いている。
身近な所で、数多くの場所で、ここ何年か本当に増えてきていることだと思う。
はたして、その介護とは・・・https://note.mu/abukunoshikou/n/n52cce3d38f96
雑音だらけになっていませんか
生活をしているといろんな事を耳にする。もちろん家で一人でじっとしていれば、そんな事はないけれど、ほとんどの人は何らかの活動していて何かが聞こえてくるだろう。
ただ人間だって万能ではないから、聞こえてくる事や来ない事は様々。意識していない事は、聞こえないし、気になっている事、興味がある事はよく聞こえたりもする。
問題は、あまりにも多くの雑音が出ているにも関わらず、それに気が付かない事。その上、雑音に囲まれていてもそれに対して何も感じていない事だと思う。
普段の生活の中であまりにも雑音が多いと感じている。もっと静かに生活できないのかと思う。
この雑音とは何を言っているのか、これに対して思う事を少しばかり、以下のリンクで補足。
https://note.mu/abukunoshikou/n/n52cce3d38f96
書きながら不思議な感覚に陥った
ノートにいろいろ書きながら、頭がどことなくぼんやりする様な感覚を感じた。字を書いている手は動きが止まる事もなく、さらさらとペンを動かし続け、言葉がすんなりと出てきている。
いつもそんな状態ではないが、ふとした時にこんなぼんやりとした感覚が表れて、頭を包んでいる。
その間は何となく気持ち良く文章が書ける。言葉も滑らかに出てきて、手もスムーズに動いて、ただひたすらに書く事にのめり込んでいける。
意図してやろうと思っても出来ない。書いているうちにこうなってくるので自分でコントロールが利かず、またやろうと思っても、思ったようにいかない。
これはノートにペンで書いている時にだけなる現象。キーボードで打ってもこんな風にはならない。
どうにか自分の意志でコントロールできたら楽しいが、思い通りには出来ない。多少、力を抜いて書くと、わずかにこんな状態に近づくかなという事は実感できた。
手を使って書いている事に意味がありそうだ、やはり体を使うと精神にも作用するのだろうと思う。
前に何かの本で読んだけど、軽い運動をしていると鬱病も改善されるみたい。しかも、イヤイヤやっても鬱病は悪化せず、改善される傾向にあるらしい。