ネット断ちのすすめ

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試しに、一日ネットを使わずに過ごしてみてください。ものすごく時間が沢山取れるはず。そして今までいかにネットに時間が取られていたかがよく分かる。

 

やってみると分かるけど、これって結構難しくて何度も無意識的にパソコンとかスマホに手が伸びてしまうからびっくりするよ。何か目的があるわけではないのにネットを使おうとしていることも良く分かる。

 

ただ、あてもなくダラダラとネットを見る事が目的になっているのだ。ネットを見る理由は、強いてあげれば暇つぶしと言った所だ。ただひたすら暇な時間を埋め合わせるだけのためにネットを使っている。さすがにこれではいかん。

 

こんな事を始めたのは、いろんな記事や動画を見ていてなんか苦しさの様な物を覚えたから。なんか頭がすっきりしない、ボーっとしてくる。いろんな情報が入ってきてお腹が一杯とでも言うべきか。どうも気分的にすっきりしないと感じたから。

 

朝起きてからの何時間かはパソコン、スマホに何度も手が伸びたが、その後少し経つと完全にネットの事を忘れられるようになる。

 

一番良いのは出かけてしまう事だ。出先で何かやる事があれば大丈夫だと思う。

おれは、このブログに感度も書いている通り、「ノートにいろいろ書く」の力を借りて、ネットを使わなかった。

 

情報を入れるのではなく、出す。いろいろ書いて自分の考えを表に出そう。

 

 

決めているからなれる、出来る。

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当たり前だけど、こうしたいと決めるからそうなる。その「こうしたい」ははっきり具体的である事。でないとそうはならない。

 

何となく、生活が変わらないかな〜では変わらない。変えるなら、「こうなる、こうする」と言うように具体的にきっちり決めていく必要があるのではないか。

 

何とも当たり前の話だけど、今こうしている自分は、自分がそうなりたいと望んでいるからそうなっているのだと思う。意識的に決意してなくても、自分のそうなるように行動を選びとっている。だからそうなる。

 

ここで、これを使ってこうしたいと決まっているから、必要な物はこれで、ここに行けば手に入るとか考えて動くから、それが実現する。

 

公園に行ってのんびり散歩したいと考えるから、公園にたどり着き、散歩を始めるのだ。自分自身の今日の体験で、そんな事を感じた。今日は広い公園に行って歩き回ったりだらっとした。そのときに、自分がやってみたい事って実現するんだなあと感じだ。

 

散歩に限らず、きっと一見難しそうな事でも、やりたい事を具体的に決めれば出来るようになるのだと思う。これがいる、アレがいるとか勝手に考えだしてやるんだね。きっと。

 

小さな事でもいいから、これをやろうと決めて実行し、実現するとなんか自身がつくかもしれない。ちょっとやってみよう。

 

 

成績表を見て、この紙は何だろうと思った。

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ふと小学一年生の頃の記憶がよみがえった。

学期末最後の、明日からは夏休みという日、先生が生徒達に成績表を渡していた。当時、成績表という言葉は使わず『あゆみ(歩み)」という名前がついていた。

 

周囲はワイワイと大騒ぎをしていたが、自分一人だけ、それを見てぽかんとしていた。この固い紙はなんなんだろう・・・・丸とか二重丸とかが書いてるけど何?何なのこれ? そんな風に思いながら、釈然としないまま一人家に帰った。

 

それから、その『あゆみ』が渡されるたびに、「だからこれが何?」そんなに大事な物なの?と、疑問を抱き続けた。アレの重要性が理解できなかったし、いつまでたってもそんなに重要な物だとは、思えなかった。

 

成績とか評価とかの存在がよく分からない子供だった。

「どうしてみんなこれがすんなり受け入れられているの? 何かのルールなの?」

なんて思っていた。成績表のような、世間に存在している決まりや枠組みなんて物を全く知らずに学校に入った。自分が先生の話を、何も聞いていなかったのか『あゆみ』

に対する説明は何もなかったと思う。それでも周囲はその存在、重要性をきちん感じ取っている。

 

周囲の生徒たちは、始めから人に評価されることを当然にように受け入れていたが自分には受け入れられなかった。先生からの評価、外からの評価を絶対視できなかった。

 

当たり前のように、自分達は品評される側でその結果で自分の価値が決まるなんて考え方は受け入れられない。

支配される事が前提となっていて生きているようではいけないと思う。

町を歩こう

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大きな町を歩くといろんな物が目に入ってくる。周囲を歩く人、建物、店の看板、車など。

 

でも自分が意識を向けていない事は存在していても、どんなに大きくても認識しない。

人間ってそういう風に出来ているみたい。逆に、関心があるもの、気になるものは目立たなくても、しっかりと認識し、目がいくようにも出来ている。

 

外を歩いていて、目が向いたり、存在が気になる物って何が自分に取って意味があると思う。

その、目が向いたもの、気になった物って何らかのヒントであると思う。そのものから何かヒントが得れてて気付きに繋がったり、後で役に立ったりすると思う。

 

目に留まって、そこから何かを考え、結果を得る。そんな事が出来る。

この前の記事「就職活動」もそう。証明写真の取扱店の看板見て、就職活動に向けている。と感じ、ビジネスに利用しているんだなあ、そういえば就職活動が嫌だったなあ

とか思い出してブログにしている。

 

こんな風に、思わぬ事から何かを見つけたり思い出したりする。

もっと出かけて外を歩いてみよう。

 

いっちょまえに書いてるけど、この話は今日気が付いたばかりのこと。自分も明日から、やり始めるので、そんなにものすごい経験はしていない。まだまだこれから。

就職活動

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就職活動ってもはやビジネスの対象でしかないと思う。

いろんな物が売れるよね。スーツ、一般常識の問題集、写真、セミナー、履歴書、などなど。 あんまり真面目にやってこなかったのでこれくらいしか思いつかない。

 

おれはこれが本当に大嫌いだった。なんか馴染めない。しょっちゅう書いている事だけど、大勢がまとめて管理されている状況に放り込まれるとそれだけで疲れきってしまう。一斉に同じ事をしなければならないという状況が本当に辛かった。自分の意志ではやりたくない事をやるのって苦痛でしかない。

 

エントリーシートも書いた事ないし、自己分析もやってないし、面接受けたのも4社ぐらいだった。SPIもやってない。ないないずくして就職活動していた。だってめんどくさかったから。やりたくなかったから。 

ただ、賃金を得て生きていくにはこうするしかないと思い込んでいた。 それだけ。

 

 

どうしてみんなそろって就職活動が出来るのだろう。嫌ではないのだろうか。そんな事を感じながら大学で過ごしていた。合同説明会に初めて行った時も、人の密集している会場にいるだけで嫌になってしまっていた。

回りの人たちが平気な顔して会場で過ごしている様子には一体感があり、それには到底理解が及ばなかった。

 

「みんな同じ。どうして」

 

これは本当に子供の時から周囲に対して感じていた事だった。

 

事前に打ち合わせでもしたかのように身の処し方を知っていることが不思議でならない。どこで習ったのだ。

 

おれは知らないぞ、その一体感を教えてくれる所を。

 

 

今、流行っている物なんて何もないのでは。

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経済とかマーケティングとかはよく分かっていないのですが、自分自身が個人的に感じている事を書きます。

 

今、流行っている物なんて何もないと思っています。

 

「流行っている」と言うと、大勢の人が大挙して同じ物を持つ、使う、楽しむなどして一つの事に意識を向けている様な状態、と言った所ではないか。

 

よく知らないけど、かつては80年代のアイドルとか漫才ブーム(多分、おれが生まれる前)とか世の中のほとんど大部分がテレビを通してそれらを楽しんでいたと思う。大勢の人の、意識を向ける対象が、ほぼ限定的なものであったはず。

しかも、情報を入手するために利用できる物はほとんどがテレビしかないと言ってよい時代。

 

今はそんな事はない。世の中の人の意識を向ける対象がほとんどバラバラ。各自、自分の好きな所に目を向けているのだ。

 

ゲームが好きな人たちは好きな者同士で集まるし、それはスポーツでも、アニメでも、何でも。ある一つのことに集まる人数は少ない。でも人が集まって出来上がる集団の数が非常に多くなっている。 今、一つの事に大勢が集まる、「流行る」なんてことは起きていないと思う。そしてこれからも起きない。

 

 

巨大な井戸が一つあって、そこにすべての人が集まって水を汲んで利用していたのが、かつての時代。

 

今は、とても小さな井戸がそこら中にあ沢山あって、各自それぞれ好きな所から水を汲んで利用している時代。

こんな例えがいいかな。

 

 

こんな戯れ言を他でも書いてます・・・。良かったらご覧ください。 

https://note.mu/abukunoshikou/n/n52cce3d38f96

もうチラシは止めたら。

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新聞に挟まってくるチラシ。もう何年も前からあるよね。

 

そろそろ止めるべきだと思う。だんだんと紙を使うこと止めていってはどうだろうか。紙を使わなくても情報が届けられるようになっているし、新聞自体も電子化されていってチラシを挟む機会も減ってきていないか。

 

それに、紙を無駄にしていると感じる。新聞に大量のチラシが挟み込まれていて、大部分は必要な情報ではない事が多いのではないかと思う。

 

そんなチラシを処分する時にいつも、こんなに紙を使って無駄だよなあと感じている。こんな事止めれば良いのに。ただただ紙を大量に捨てている自分が何だか嫌だ。紙を沢山捨てているという行為が自分を嫌な気持ちにさせている。

 

何とかならないか。アレは効果的な宣伝になっているのか。スーパーの特売品ぐらいなら多少効果はあるかもしれないが。情報を取るのにチラシしか手段がない事も考えにくい。

 

今調べたら近所のスーパーってホームページ上でチラシ載せてんだ。知らなかった。

そしたらもうチラシも要らないか。やめよう、やめよう。紙がもったいないよ。

 

 

 

こんな戯れ言を他でも書いてます・・・。良かったらご覧ください。

https://note.mu/abukunoshikou/n/n52cce3d38f96